さて、前回の大学の先生のお話のつづき。。。
最近自己受容できない子が多いの。
そんな子は、成長して、引きこもりになったり、ウツになったり・・。
そんな例をたくさん見てきた
(怖い話だなあ。。。。)
自己受容・・・「自分のこと、大好き!」とか
「まあ、イケてるじゃん」って、自分で自分のことを受け入れられてること。
それができていないと、大きくなって、困難にあったときにポッキリ、心が折れてしまう。
幼少のときに、愛され、受け入れられて、それが育つそう。
最近のお母さんたちは、勉強熱心だから、ほめて育ててるから大丈夫なんて言ってるけど
お母さんにとって、都合のいいところだけほめるんじゃあ、意味ないの。
存在丸ごと受けとめてあげなくちゃあ・・・・。とのこと。
その話から、造形表現を通じて自分をつくることの大切さへ。
たとえば、楽しかった、うれしかった、びっくりした、きれい、素敵、かわいい、かっこいいなどの感情から色と形でそれを表現する
こんなだったらいいな、どうしたらできるかな、・・・
他の教科と違って、学習するのではなく、実践し、体験して知ること。感じること。
(もちろん、学習も大事、しっかり勉強してね~)
そうして、できあがってきた作品はまさしく、その子の分身のようなもの。
作品をそのまま、受けとめ大事にしてほしい。
アトリエmadoでは、各家庭に額を用意していただき、作品をリビングや玄関に飾っていただくようにお願いしている。
額に入れると、いいところと、悪いところがよくわかって、絵の勉強になるし
絵をきちんと扱われると自分も認められ、受け入れられてると感じ、自信につながると思うから。
それにしても、それぞれの子どもを受け入れ、認めることのむずかしさ。
つい、口を出して、より完成度の高い絵にしたくなってしまうことがある。
けれども私が口出し、手だしをすることでその子が、もともと持っているすばらしいものが出てくること、また感じ取ることを妨げてしまう。
恩師の長沢節先生もこうやって描きなさいとは、いっさいおっしゃらず、いいところをほめて、各々が感じ、吸収することを見守って下さっていた
息子らが通った保育園「小俣幼児生活団」ここの園長先生の言葉も私の一つの大きな指針
子どもらにとって、押し売りではなく、御用聞きでいなさい。
・・・・ああしろ、こうしろと、子どもが望まないものを与えるのではなく、
何か、お困りではありませんかと、相手が必要最小限のものを与える。
子どもは自分の手に幸せになる地図を持って生れてきている。親や先生はそれを、書き換えたり、やぶったりしてはいけない。
アトリエに通ってきてくれる子、ひとりひとりみんな、それぞれの宝を持っている。
その子、その子の持っているすばらしいものを引き出すことができたら・・・・
目の前の絵がちょっとばかり、りっぱになるより、今、これを描いた気持ちに寄り添えたら・・・
少しは、「自己受容」のお手伝いができるだろうか
こんなこと言ってる私も実はコンプレックスのかたまりで、お酒を飲んでごまかして、翌朝重たい頭で自己嫌悪。
やれやれと、とほほのマーブル模様。
こんな自分でも「ま、いっか」と許せるひとつに、
madoの仕事を通してわずかでも喜んで下さってる方の顔が見える、ということ。
どうやら、madoをとおして、「自己受容」が一番必要なのは私だったのかもしれない。